2017年12月01日

日本人になってみなければわからない世界

 日本文学者のドナルド・キーン氏が偉いな、ご立派だなと思うのは、氏が最終的に日本国籍を取得したことです。
 氏がいかに流暢な日本語を操って近松や芭蕉を論じようとも、いかんせん、日本人になってみなければわからない世界というものが、厳然としてある。
 氏は、日本人になって、はじめて三島も「もののあはれ」も理解できたに違いありません。

 なぜか。それは、「日本国」というものと「日本文化」というものが、切っても切れない関係にあるからです。ここが他の諸国・諸文化と決定的に異なるところです。
 こういうことをいうと、「日本文化」とはいったい何だ、その内実は多様だ、十把一絡げにくくるなという批判を浴びそうですが、そう批判する方は、失礼ながら視野が狭いと言わざるを得ません。
 なるほど、北海道と沖縄では文化が違う。いや、同じ本州の中でも、西日本と東日本ではだいぶ異なる。同じ東日本の中でも…と、この調子で行ったら、どこまでも細分化できてしまいます。
 広く地球規模で見比べてみれば、やはり日本文化は他の諸文化と比較して単一性が強いのです。言語の面から言っても、宗教の面から言っても、それは間違いありません。
 そして、その日本文化は、紛れもなく日本国の領土において、紛れもなく日本国の国民によって、継承され続けてきたのです。
 日本国籍を取得することによって、はじめて日本文化の担い手となることができる。
 小泉八雲とキーンドナルド氏、私はこの二人の青い目の同胞を、心から尊敬します。

 反対に、ちっとも尊敬できないのが、大横綱という立場にありながら日本の国技を汚してきた、または今も汚し続けている面々です。
 朝青龍や日馬富士などは論外として、今回、意外と悪質な本性が露見したのは白鵬でした。優勝者自ら、しかも不祥事の最中に、客に万歳三唱を押し付ける厚かましさ。それに「日馬富士を再び土俵に上げたい」「貴乃花巡業部長の下で冬巡業には参加できない」…一体、何を考えているのでしょうか。

 神事たる相撲をその辺の「スポーツ」と錯覚し、「惻隠の情」も「武士の情け」もわからない外国人を土俵に上げて平然としている。その不見識、その無神経に、私は諸悪の根源があると考えます。
 知ったかぶりの理屈屋はどこにでもいるものですが、とりわけ日本の伝統文化界隈にはなぜかしつこく出現し、
 「まあ、いいじゃないか。今の時代、外国人の力士がいたって」
といった邪説をもっともらしく周囲に吹聴するのです。
 また、吹聴される方もされる方で、案外ころっと騙されてしまう。
 所詮はファッションで伝統文化をやっているに過ぎないので、人権だの多様性だのと言われると、もう他愛もなく赤子のように騙される手合いが多いのです。

 相撲を日本の国技とするならば、当然、力士も日本人に限るべきです。
 また、外国人を土俵に上げるならば、相撲は日本の国技の座を他に譲るべきです。

 はっきり言って、外国人力士など、もうやめたら良いのです。
 一番強い奴が、格下の後輩をビール瓶で殴った、いやビール瓶は使っていない、リモコンで殴った…
 こういう話が続くから、学校で武道を教える必要はないなどと言い出す人達まで出て来る。
 困ったものです。

 一番強い奴が、一番優しくて一番ご立派でなければならない。
 日本人なら肌感覚でわかる、武道というものの初歩の初歩がわかっていないのです。のんきに万歳なんかやっている。

 自分達の国で、勝手にSUMOを取ったら良いのです。

posted by 田中ゆうたろう at 09:47| Comment(0) | 日記

2017年10月09日

政治家以前に社会人としての資格は十分か

 民進党という鵺のような政党が、あたかも集団自殺のように、満場一致で自ら滅び去りました。希望の党は、とても大きな役割を果たしたことになります。
 あいかわらず愚かなマスコミは、「排除の論理」云々を言い立てて党首を攻撃しているようです。が、一つの政党を作るに当たって、よくよく人を選ぶのは当たり前の話ではありませんか。(ただし今夏の都議会議員選挙の際も、もっと人を選ぶべきでした。そのことは強く言っておかなければなりません。)
 自民党も、本当はもっと人を選ばなければならないのです。こう言っては失礼ですが、変なのがいっぱい混ざり込んでいる。
 およそ人格を疑わせるような失言を連発しながら、いまだに有権者に一言も詫びていない、政治家以前に社会人としての資格を欠く者さえいます。
 なんでこんな者が何期も国会議員をやってきたのか不思議ですが、要は他に選択肢がなかったのです。今回は、それがあります。

 連日ミサイルが飛んでくるというのに、この期に及んでなお「平和憲法を守れ」など言う、戦後教育にどっぷりと浸かった戦後世代の馬鹿さ加減を、若い世代はよく見抜いています。
 憲法は、断じて、改正しなければなりません。
 否、敗戦に際して他国から押し付けられた現行憲法は、「改正」ではなく「破棄」して、ゼロから自主憲法を制定することが、日本人としての本来の務めです。しかし、一足飛びにそこに行くことは簡単ではありません。すでに70年余り、虚妄の憲法のもとで虚妄の国に暮らしてきた、戦後日本人の虚妄な歴史が存在することは、残念ながら否定できない事実です。
 しかし、真剣にやろうとすれば、やれるのです。かつて日本には、吉野の朝廷と京都の朝廷、皇室が二つに分かれた時代がありました。しかし、それらは最終的には合体し、吉野の朝廷が正しかったのだという結論にたどり着きました。
 同じ思考操作を、私達自身が行えばよいのです。混乱を極めた私達国民の歴史認識を、この際、自ら整理するということです。二つに分かれた皇室のいずれが正しいか、という大問題さえ解決できたのです。まして憲法について、それができないはずはありません。
 しかし、「現行憲法破棄」「自主憲法制定」と言っても、頭の固い戦後世代は、なかなかついてこられません。何しろ、今まで自分達が生きてきた国家観がまるごと否定されてしまうわけですから、怖いのです。
 そこで、そういう大人達にも配慮して、遠回りですが、まずは憲法を改正して「応急処置」を施し、やがて自主憲法制定という「大手術」の機が熟するのを待つより他ありません。

 憲法改正を明言する政党が複数出現したということは、選択肢が増えたということです。
 有権者はよくよく、人を見て判断すれば良いのです。
 人を見て、人を見て、それでもなお、選挙区によっては、いずれの候補者に票を投ずべきか、悩ましい場合もあるでしょう。その際、有効な判断基準は、政治家以前にそもそも社会人としての資格は十分か否か、です。

posted by 田中ゆうたろう at 12:00| Comment(2) | 日記

2017年08月20日

まともな日本人の対極にある日本の政治家の発言

 『広島に原爆を落とす日』という題名の戯曲があります。劇作家の故・つかこうへい氏の作品です。有名な作品ですが、私は昔から、この題名をどうしても好きになれませんでした。
 「こういう題名は、まともな日本人ならば付けられないのではないか?」との思いが、直観的にありました。そしてその直感は正しかったのだということを、後から知りました。
 つか氏にどれほど優れた才能や業績があったとしても、この題名ひとつで致命傷だと思います。私の知り合いの演劇人には、つか氏の影響を受けた方も多いので言い辛いのですが、私はこういう題名を自作に冠してしまった氏の作品を読みません。

 まともな日本人かどうかということは、単に国籍だけで判断できることではありません。
 昨年の「ユーキャン新語・流行語大賞」のトップ10に「保育園落ちた日本死ね」という言葉を選んだ理由について、審査員で歌人の俵万智氏は次のように述べました。
 「『死ね』が、いい言葉だなんて私も思わない。でも、その毒が、ハチの一刺しのように効いて、待機児童問題の深刻さを投げかけた。世の中を動かした。そこには言葉の力がありました。お母さんが、こんな言葉を遣わなくていい社会になってほしいし、日本という国も日本語も、心から愛しています。」
 世の中を動かすならば、言葉の暴力も大いに賛美するという宣言です。それでいて自分は歌人だなどと言って憚らない。この人も、やはりまもとな日本人とは言えないようです。

 最近、まともな日本人の対極にある日本の政治家の発言が物議を醸しています。
 社民党副党首の福島瑞穂参院議員です。氏は去る15日、先の大戦で亡くなった身元不明の戦没者の遺骨が納められた千鳥ケ淵戦没者墓苑で開かれた市民団体主催の「戦争犠牲者追悼、平和を誓う8・15集会」に出席。
 そこで、氏は映画を引き合いに、次のように挨拶したそうです。
 氏のブログから引用します。

 「『ロードオブザリングー指輪物語』の中で、死者の人たちが地中から蘇り、力を合わせて共に戦う場面があります。わたくしは今、その場面を想起しています。主権者であるわたしたちは、戦争犠牲者の全てのみなさんと共に力を合わせて、9条改悪を止めたいのです。」

 この発言にはすでに「戦争犠牲者をゾンビ扱いするとは何事か」「ネクロマンサー気取り」等々、批判も殺到しているそうですから、今さら言うほどのことでもないかも知れませんが、福島議員という人は、まともな日本人とは決定的に「死生観」が異なることがわかります。
 よくもまあ、戦没者の墓前で抜け抜けと死者を冒涜できるものです。
 
 彼ら戦争犠牲者が千鳥ケ淵の地中から甦って、9条改悪を阻止せよなどとデモ行進を始めることはあり得ません。
 ただし福島氏は早晩、神慮によって、自らの言葉の責めを負うことになるでしょう。

posted by 田中ゆうたろう at 11:36| Comment(13) | 日記